東日本大震災総括(その4)

非難時には普段用いている往診鞄とAEDのみ持ち出せた。また診療時間中であったためスタッフ全員が歌津中学校に逃げたので、診察体制には大きな問題はなかったものの、カルテや何より薬品がまったくなかった。

 

カルテ代わりに中学からコピー用紙をもらい患者氏名、住所、生年月日を記入し往診鞄内の血圧計と聴診器を用い診察をおこなった。しかも、それが唯一の医療機器であった。

 

歌津中学校体育館に避難した人たちの半分以上は当院の患者であり、病名などは分かっていたが他院の通院していた患者については本人ですら自分の病名が不明であり大変困った。

 

もちろん三日目には接骨院に移動して診療を続けた、接骨院より300mの場所に薬局が半壊程度の被害で営業活動を行っていたので非常に助かった。

 

しかし夜は歌津中学校の体育館に戻り生活するため、結果的に24時間体制の診療を行うことになった。相当、疲弊した。ナースやスタッフは交代制ながら24時間診療に加わっており同じく疲労困憊したはずだ。

 

どんな医者、看護婦であれ連日24時間など働けるはずもなく、可能であっても必ず休憩や休息を取らないと燃え尽きてしまう。医者やナースとて人間、しかも同じ被災者であるのだ。

 

後日、奈良県医師会のドクターが数名体制で派遣され、私は24時間接骨院に滞在することになったが薬局を院内に設置したため、今度は夜中じゅうバットとゴルフクラブで武装して宿直することになった。

 

ソーラーランプを1階に2台、二階に1台設置して人が住んでいることをアピールした。当時、被災地は無法地帯化しており窃盗を行う者が多数現れたためだ。地震直後よりしばらくの間、電気が通ってなくSECOMを利用できなかったのだ。

 

電源が不通なので、当時は近所の人からお借りした昔ながらの灯油ストーブが役に立った。エアコンや灯油ファンヒーターは電源を要するので役に立たない。後日、ガソリン発電機が優先的に借りられて大いに役立った。ただ燃費と喧しいのが困った。